大地の姉を前にして、海は無駄に緊張していた。
これっておかしくない? 別に私、大地と付き合ってる訳でもないんだから。 昨日出会ったばかりの他人、そのお姉さんってだけのこと。 緊張なんてしなくていい、普通にしろ、私。 そう自分に言い聞かせるが、興味津々な姉の視線に変な汗が止まらなかった。「ほら、コーヒー」
大地が姉にカップを渡す。そして海にも渡すと、そのまま姉の隣に座った。
おいおい大地! なんでそっちに座るんだよ! 二人して私の前に鎮座して。これじゃほんとに、私の品評会じゃないの! 海が心の中でそう叫んだ。 落ち着きなくコーヒーを飲み、姉に作り笑顔を向ける。「……」
そんな海を姉が凝視する。
最初は戸惑っているようだった。しかし今は、弟にふさわしい女かどうか見定めているように見えた。 空気が重い。大地、なんか喋りなさいよ、そう思った。そして同時に。海は姉の容姿が気になっていた。
大地を抱きしめている時。姉が小柄な女性だということは分かった。頭ふたつ分、大地より小さい。 普通に見れば可愛い女性だ。しかし海は、その体型にも違和感を感じていた。 痩せている、と言えば聞こえがいい。だがそんな言葉で表現出来ないほど、姉は華奢な体型をしていた。病的と言っていいぐらいだ。 そしてもうひとつ。 彼女の右目は眼帯で覆われていた。「気になる?」
視線に気付かれた、しまったと思った。しかしもう遅かった。
海が神妙な面持ちで頭を下げる。「す、すいません、その……じろじろ見ちゃって」
「あはははっ、素直でよろしい。まあでも気になるよね、こういうのって」
そう言って姉が眼帯に触れた。そして次の瞬間、肩を震わせてうつむいた。
「え……え? え?」
突然のことに海が動揺する。
「うずく……うずくんだよ、この目が……」
「だ、大丈夫なんですか」
「まだだ、まだその時じゃない。だから……力を解放するんじゃない、私の右目……」
「……」
「そういうボケはいいから。海が反応に困ってる」
大地がそう言うと、
「あはははっ、ごめんごめん。分かりにくかった?」
姉が頭を掻いて笑った。
「いや、分かりにくいって言うか、そういうボケは相手見てやれってことだよ。誰でも彼でも分かるネタじゃないんだから」
何のことかよく分からない。海の脳裏にいくつもの「?」が浮かんだ。
「ごめん、ごめんって海ちゃん」
「あ、いえその……って、海ちゃん?」
「あれ? 名前、合ってるよね。星川海ちゃんだったよね」
「そうですけど」
「だから海ちゃん。苗字で呼ぶよりしっくりくる」
独特の空気感で距離を縮めてくる姉に対し、海が困惑の表情を浮かべる。
でもこの距離感、嫌いじゃない。不思議な人だな、そう思った。「私はこいつの姉、清水ソラ。青空って書いて青空〈そら〉。よろしくね、海ちゃん」
そう言ってにっこり笑った。
清い水の青空。うん、やっぱ統一性がない。流石姉弟、そう思い微笑む。「可愛いね、笑顔」
「そ、そうですか?」
「うん、私好みだ。それだけで海ちゃんがどういう人なのか、分かる気がする」
私こそですよ。青空〈そら〉さんの笑顔、ほっとします。
そう思い、「ありがとうございます」と頭を下げた。「さてさて。それじゃあ無事挨拶も終わったことだし。大地、説明してもらおうか」
「無事でもなんでもないけどな。まあ会ってしまった訳だし、説明はするよ」
「なんだよその言い方。私はお姉ちゃんなんだぞ」
「ちっこいけどな」
「ちっこいって言うな」
そう言って青空〈そら〉が頬を膨らませる。
「こいつは海、星川海だ」
「それは知ってる」
「女だ」
「それも知ってる」
「歳は25で」
「それは知らなかった! 海ちゃん、そんなに若いんだ!」
目をキラキラさせて青空〈そら〉が見つめる。そして「いいなぁ、若くって」と羨ましそうにつぶやいた。
「青空〈そら〉さんだってお若いじゃないですか。それにお綺麗ですし」
「ありがと。でもね、そういうフォローされてる時点で、年増ってことになるんだよ」
「あはははっ……すいません」
「で? 大地、海ちゃんが誰なのか、どうしてここにいるのか。なんであんたのジャージを着てるのか。説明よろ」
「はいはい」
大袈裟にため息をつき、大地が視線を下げた。
その仕草に、青空〈そら〉が苦笑する。「こいつとは昨日の夜に会ったんだ。コンビニ前で、男に絡まれててな」
「なるほどなるほど。それで?」
「それで助けたんだけど、話を聞くとこいつ、家出中みたいでな」
「家出……ね」
「たいして金も持ってないみたいだし、また変なやつに絡まれても可哀想だ。そう思って泊めた」
「ほうほう。やるじゃない」
「そうか?」
「あんた、腕っぷしだけは立派だもんね」
そう言って顔の痣を見つめ、笑った。
「そうなんですか?」
「こう見えてこいつ、格闘技やってたんだよ」
「護身術だ」
「でも大地、あの時あいつに殴られて」
「ああいう輩にはな、自分の方が強いって思わせる方が効果的なんだよ。あそこで下手にかわしたり反撃したら、返って興奮しちまう。だからあえて殴られたんだ」
「……ごめんなさい」
「だから謝るなって。済んだ話だ」
うつむく海にフォローを入れる大地。二人を見て青空〈そら〉がうんうんとうなずいた。
「大体の事情は分かったよ。大地、よくやった」
「で、さっきも話してたんだけど、こいつこの辺りに知り合いもいないらしいんだ。だからしばらく、ここで面倒みてやろうと思ってる」
「ふーん」
まじまじと大地を見つめ、青空〈そら〉が意味ありげな笑みを浮かべる。
「……なんだよ」
「べーつーにー。ただね、他人に全く興味がない大地が、この子の面倒を見るだなんて言うもんだからさ」
「俺だって、関わらなくていいなら無視するさ。ただなんて言うかこいつ、ちょっと危なっかしいって言うか」
「分かった分かった。そういう事情なら反対しないよ。あんたも大人なんだし、自分で決めたんならしっかりやるといいよ」
「ああ、そうするつもりだ」
「でもまあ、面倒みている内に恋心が芽生える、なんてことになったらお姉ちゃん、嬉しいんだけどな」
「それはない」
「ないです」間髪入れず、大地と海が否定する。その息の合った返答に、青空〈そら〉が声を上げて笑った。
「まあ、海ちゃんには海ちゃんの事情があるんでしょ。詳しくは聞かないから安心して。それに海ちゃんいい子みたいだし、ここでよかったらゆっくりしていってよ」
「は、はい、ありがとうございます」
「いや青空姉〈そらねえ〉、ここは俺の家だから」
一年後。 青空〈そら〉の誕生日であり、一周忌にあたる1月19日。 有料老人ホームがオープンした。 施設長は浩正〈ひろまさ〉、大地は管理者。 海は喫茶「とまりぎ」の責任者として、従事することになった。 * * * この日は運動場を開放し、オープンを祝うたくさんの客が訪れていた。「おめでとう、浩正くん」 車椅子の下川が微笑む。「ありがとうございます。何とか無事、オープンすることが出来ました」「青空〈そら〉ちゃんもきっと、天国で喜んでるわ」「そうですね。でもね、下川さん。天国は勿論ですが、ここにも青空〈そら〉さんはいますからね」 そう言って入口に掲げられた看板を指差す。「そうね、そうだったわね」 有料老人ホーム青空〈そら〉。 それがこの施設の名前だった。「浩正さん、利用者さん一名、到着されました」 そう言って大地が門まで走り、車を誘導する。「すいません大地くん、お願いします」「任せてください」 大地が笑顔で答え、車から降りてきた利用者に手を差し出す。「ありがとう。随分賑やかね」「ようこそ青空〈そら〉へ。歓迎します」 海は運動場を走り回り、スタッフたちと接客に当たっていた。「海ちゃん、本当におめでとう」「ありがとうございます。山田さんも、今日はゆっくりしていってくださいね」「海ちゃん、本当にしっかりしてきたわね。これなら新人さんたちも安心ね」「あはははっ、私、最初の頃はおっかなびっくりでしたからね」「でもここを任されてからの海ちゃん、本当に見違えちゃって。格好いいわよ」「あはははははっ、そんなに褒めても何も出ませんよー。あ、でも紅白饅頭はありますから。後で召し上がってくださいね」 そう言って後輩スタッ
買い物から帰ってきた海が、呆然と大地を見つめる。「何……してるの……」 大地は台所で料理をしていた。「おかえり、海」 そう言って振り返った大地を見て、海の目に涙が溢れた。「どうしたどうした。泣くほど寒かったのか? 早く入ってあったまれよ」 海の元に進み、そっと抱きしめる。「そろそろ俺の料理が恋しいんじゃないかと思ってな。久し振りに作ってみた」「大地……」「いっぱい迷惑かけたな。ごめん」「もう……大丈夫なの?」「ああ、大丈夫だ」「……終わったの?」「ちょっとばかり強引だったけどな。何とかなったと思う」「……」「海?」「もう……死にたいって思ってない?」「思ってないというか、死ぬのが惜しいと思った」「……」「死んだら海のこと、こうして抱けないからな」「馬鹿……」「それに……これからだろ? 俺たちの人生は」「大地……」「とにかく手を洗って座ってろよ。全部ちゃんと話すから」 そう言うと海は肩を震わせ、大地を抱きしめた。「うわあああああっ!」 大地は微笑み、囁いた。「愛してるよ、海」 大地の目にも、涙が光っていた。 * * *「そんなことしたんだ、あはははははっ」 風呂から上がり、肩を並べて座り。 ビールを手に、海が笑い転げた。「……そこ、笑うところか?」
カーテンを開け。 煙草をくわえ、火をつける。「……」 大地は混乱していた。 海に促されて始めた自己問答。それが思いもよらぬ方向に進んでいた。 人を信じない。誰とも関わらない。それが自分の哲学だった。 それなのに今。実はそれを渇望していたという結論に辿り着いてしまった。 それは大地にとって、驚愕の事実だった。 本当は俺、人と関わりたかったのか? そう思い、眉間に皺を寄せ。白い息を吐く。 そして思った。 自分にとって、深く関わりたいと思えた他人。 青空〈そら〉。浩正〈ひろまさ〉。 そして海。 青空〈そら〉は死んだ。二度と関わることが出来ない。 その絶望は自分にとって、死を選択するに十分なものだった。 浩正さん。 生まれて初めて、尊敬出来ると思えた他人。 思慮深く、人の痛みに理解を示し、手を差し伸べる聖人のような男。 姉を愛し、共に生きることを誓ってくれた人。 だけど俺は彼に対して、いつも心を閉ざしていた。 もし、この人にまで裏切られてしまったら。二度と立ち直れないと恐れたからだ。 * * * 海。 星川海。 こいつと出会ってまだ、数か月しか経っていない。 それなのにこいつのことを、ずっと昔から知っているように思っていた。 この世界に絶望している同志。 最初はそれだけだった。そう思っていた。 だが青空〈そら〉は言った。『あんた、そこまでお人好しだったっけ。いつものあんたなら、後をつけてまで助けるなんてこと、した?』 その言葉に動揺した。確かに俺らしくない、そう思った。 海がどうなろうと、それはあいつの選択だ。 何より海は俺と同じく、近い内に死のうとしてるやつだ。そんなやつがどうなろうと、自分には関係ないはずだっ
俺が生きる意味。死ぬ意味。 それはなんだ? * * * 海は言った。俺の根底にはいつも、絶望があると。 その意味を読み解いた時、何かが変わると。 面白いやつだ。 そんな発想、思いつきもしなかった。 これまでずっと、死を渇望しながら生きてきた。 どうしてだ? 毎日飯は食えるし、欲しいものを買う余裕だってある。 自分の時間もあるし、仕事だってそれなりに楽しい。 煩わしい人間関係も持ってないし、特にストレスを感じることもないはずだ。 それなのに。 どうして俺は死を願ってたんだ? * * * 青空姉〈そらねえ〉が死んだ。 俺にとって唯一とも言える、この世界の光。 それが失われ、俺は絶望した。 ある意味壊れた。だから死を実行しようとした。 だが海は言った。 本当にそれだけなのかと。 確かに俺は今まで、青空姉〈そらねえ〉が生きていたにも関わらず、ずっと死を考えていた。望んでいた。 いや。 海に言わせれば呪いか。 青空姉〈そらねえ〉が死んだことで、その思いが強くなったのは確かだ。 しかし俺はそれ以前から、ずっと前から死にたいと思っていた。 それは何故だ? * * * 親父が憎かった。 俺が逆らえない弱い存在と分かった上で、自分のストレスをぶつけてきたあのクズが憎かった。 母親が憎かった。 いつも俺を罵倒し、心を殺してきた悪魔が憎かった。 お前たちは親という立場にも関わらず、俺たちを育てるという最低限の仕事もせず、ただただ見下し、排除することを望んでいた。 そんなお前たちを、俺はただの一度も親だと思ったことはない。 お前たちのおかげで青空姉〈そらねえ〉は右目を失い、心に深い傷を負った。 お前たちがいなければ、俺た
次の日。 目覚めてからずっと、大地は泣いていた。 * * * 昨日、異様なテンションで喋り続けていた大地。 浩正〈ひろまさ〉の忠告を思い出し、海はずっと緊張していた。 夜、大地が眠りについた時。乗り切れたと安堵した。 青空〈そら〉さんが守ってくれた、そう信じ涙した。 それなのに。今日は打って変わり、泣き続けている。 この不安定な情緒こそ、今の大地なんだ。 丸裸になった彼の心。 まるで獣に睨まれ、怯えている小動物の様だ。 泣き続ける大地をそっと抱きしめ、海は囁いた。「どうして泣いてるの?」「分からない……自分のことなのに、分からない……」「そうなんだ……でもそれ、普通なんじゃない?」「そう……なのか?」「だってこれ、大地が言ってたことだもん」「俺、なんて言った?」「自分のことが分からない、他人の方が自分を分かってる。そんなの当たり前だって言ってた」「ははっ……そんなこと言ったのか、俺」「大地は今、何を考えてるの?」「それは……」「泣いてる理由が分からない、そう言ったよね。だから質問を変えてるの。今、何を考えてる?」「……怒らないか」「怒らない。約束する」「……死にたいんだ」「そっか……」 笑みを崩さず、海は抱きしめる手に力を込めた。「青空〈そら〉さんがいないから?」「だと……思う……」「寂しい?」「ああ、寂しい……」
それから数日が経ち。 禁断症状がかなり治まっているのを感じた。 短い時間ではあるが、夜も眠れるようになっている。 煙草の本数に気をつければ、頭痛も酷くならなかった。 少しずつ、食事も摂れるようになってきて。 肉体的にかなり楽になってきたと実感した。 しかし。 入れ代わるように、今度は心が蝕まれていった。 言い様のない不安。恐れ。 それらが全身にまとわりついていた。 * * * 体が震える。 ジャケットを出して羽織る。 しかし震えは治まらなかった。 なんなんだ、これは。 大の男が部屋で一人、何を震えてるんだ? 禁断症状の時とは違う、体が自分のものでないような感覚。 なんでこんなに寒いんだ? そう思いスマホを見ると、気温は20度になっていた。「はああっ? 壊れてんのか?」 しかしすぐに思い直した。 違う、壊れてるのは俺の自律神経だ。 そう言えば昨日、天気予報で5月並みの陽気になると言っていた。 そう思うと、急に暑く感じてきた。 慌ててジャケットを脱ぐ。シャツを脱ぐ。 全身に汗がへばりついていた。 大地はタオルで汗を拭い、新しいシャツに袖を通した。「……また……寒くなってきたな……」 再びジャケットを羽織り、苦笑する。 寒いんだか暑いんだか、よく分からん。 色々と……壊れてるんだな、俺。そう思った。 そして。 嫌な感覚を覚えた。 何かに監視されているような感覚。 視線を感じ、クローゼットを見つめた。「……」 何も起こらない。当たり前だ。 この家に住んでるのは俺と海。他に誰もいない。 海は今、買い物に出